新世界無秩序

政治と文化に関する批評や翻訳等

アトラクションとしての藤本タツキ「さよなら絵梨」

あるいはクリストファー・ノーランと現象の場

『チェンソーマン』作者の新作読切『さよなら絵梨』配信スタート 200ページの長編 | 福島民報

2022年04月11日、「チェンソーマン」「ルックアップ」の藤本タツキ氏の新たな作品が突如として公開された。タイトルは「さよなら絵梨」。スマートフォンで映像記録を撮り続けることを運命づけられた一人の少年の半生を追う、単話完結の物語だ。

作品は終始、藤本らしい息もつかせぬストーリー展開で、自己言及のパラドックスをうまく混ぜ合わせたメタ的な演出がリードするという素晴らしい内容だ。物語の中軸にもなっている映画という要素も、単なるキーアイテムとしての登場にとどまらず、「信頼できない語り手」としても機能するという、漫画という媒体でありながら、まさしく「映画」のような重層的な作りとなっている。全体のボリュームはそこそこあるものの、読んでて飽きが一切来ず、手を止めずに一気に読めてしまう。オチもある程度予想の範囲内ではあるが、それにしても見事に収斂している。間違いなく名作だと言うべき作品だろう。

この読後感は、何かしらデジャブめいたものがある。そう感じてから、しばらく考えていて思い当たったのが、クリストファー・ノーランの映画のことだった。素晴らしい着想、息もつかせぬ展開、素晴らしい画作り、目まぐるしい演出、そして綺麗な幕引き…。口うるさい批評家と賑やかしの大衆を同時に満足させることが出来る、稀有なエンターテイナーとしての才能。それを藤本タツキの中にはっきりと感じた。

ここで少し、私個人の話をすれば、実はクリストファー・ノーランという監督は、最もお気に入りの映画監督だとは言えない。もっとも、新作が劇場公開されればそれなりに楽しみに観に行き、それなりに楽しんで観て帰ってくる。すごい監督だなとは思うが、恋焦がれ、憧れることはしない。なぜなら、彼の作品を通じて、大衆性という意味での社会性は感じるが、公共性というものをほとんど感じないからだ。

確かに、彼の作品には、いわゆる「社会派」じみた切り口もたびたび登場するが、そこに何らの彼個人の執着はほとんど感じられない。絵作りに対する執着と比べると、どれだけ多く見積もっても1万分の1程度にしか公共というものに興味を持っていないのは明らかだ。それは、単なる演出装置か、あるいは批評家に対するポージングのために置いておいた、というのが彼の作品の定石である。

ノーランは、着想からスタートする状況を描き切ることに関しては抜群に上手いが、単線的な思考実験の成果のお披露目会以上のものは作る気はないのだろう。いわば、そこに「あるべき世界」の姿は何も描かれていないのだ。言い換えれば、世界を「現象の場」として捉えておらず、「共創の場」としては捉えていないことを如実に感じる。私個人としては、かつてはそこが残念で仕方なく、歯がゆい監督だと感じていた時期もあるが、今となっては割り切って、テーマパークのアトラクションのようなものだと考えるようにしている。そうしてからは、難しいことを考えずに、一つのエンターテイメントとして消費して、そこで終わり。私は彼の作品を非常に「楽しんでいる」。

そして、「さよなら絵梨」を読んだ後に感じたことは、そういったところまで含めて、クリストファー・ノーラン作品にかつて感じていたこととまるで同じだった。作者が何を描きたいか、そして作者自身がどうありたいかはありありと伝わってくる。先述のように、素晴らしい描き手と作品であることは疑うべくもないだろうが、その作品が、世界にとってどう響いて欲しいのか、あるいは世界にどう響くべきか、といったことには、まるで興味がないのも同時に強く伝わってくる。「さよなら絵梨」は素晴らしいのだが、素晴らしい以上のものは何もない。それ以上のものに手を伸ばせばなりうるが、その気がない。

彼らにとって、どんなショッキングな現実も、彼らの中では演出装置の一部でしかない。しかし、実際には現実は現実であり、そこに人が生まれ、さまざまな思いを抱きながら、生きて、死んでいく。そして、そういった人々の生がどのように扱われるべきかということを、エンターテイメントは語り得ない。だからこそ、「藤本タツキは最高のエンターテイナーだ」と言うべきなのだ。そう、彼のアトラクションは、ちょっとした社会派要素で批評家を喜ばせ、そして演出と展開で大衆を喜ばせてくれる。そして私たちはその入場列に並んで、ただワクワクしたまま、難しいことを考えずに、スマホを見たりチュロスを食べたりTiktokを撮って、ファストパスの入場者を見過ごしながら、ただ自分の入場を待ち続けるだけなのだ。(了)